サマディ

サマディは、何かを達成することや、場所や、特別な状態を手にすることとは一切無関係です。


今ではないどこかに必死に向かおうとすることこそが、今この瞬間、足元に咲いている花を踏みつけているということに多くの人は気づきません。


自由は不自由のなかに、しあわせは不幸の中に、信じることは疑うことの中にあります。


究極には、「いま」も「瞬間」もありません。


上下、優劣が存在しません。時間が存在しません。


もうお気づきの方もいると思いますが、ヨガの八つのステップの最終段階にあるとされているサマディ。外からは段階に見えていますが、実際には段階などありません。


シンプルゆえに奥深く、ヨガの世界にはいっけんするとわけの分からないようなことが存在します。


だからこそ、ヨガは多くの人によって様々に解釈され、特にサマディ(悟り、完全なる調和、自己の不在)に関しては、スピリチュアルの延長上の陶酔のなかで作り出されていたりもするくらい、要するに、このただのシンプルなことに余計な色がつけ足されて、全く色味が違うものになっているものが多く存在しているということです。


サマディは生き方でも知識でもありません。サマディを "自分” のものには出来ないし、サマディは ”誰” のものにもなりません。


 これは、丸めたヨガマットのなか、飲み終わったマグカップのなか、脱ぎ捨てた靴下のなか、そこら中にあるただそのままのことです。