サマディ(自己の不在)
悟りやサマディと聞くと特別な状態をイメージすると思います。私もそうでした。でも、サマディには何の意味も特別性もありません。これはヨガの教えとは一切無関係で、ここに答えがあるわけでもありません。
ヨガすることとも関係しません。それでも、身体を使ったヨガのプラクティスがサマディを伝えているというのは本当です。
ちょっとめちゃくちゃに聞こえますよね(笑)。これは個人の理解を完全に超えています。というよりも、理解は「個人の解釈」でしかありません。
悟りやサマディを手にするために、スピリチュアルワークや、(それを目的とした)瞑想や何らかのアクションを要求されることがあれば要注意ですよ。そこでは覚醒や解放という言葉が使われることもあるかもしれませんが、私が言っているサマディは一切の覚醒や解放とも無関係です。
このブログは非公開なのではっきり言ってしまいますが、〇〇すれば救われるなどと言っている宗教も全くおんなじです。
宗教に関してはもっとはっきり言えることがありますが、これ以上誤解を招かぬようこの辺でやめておきます。
無の境地が訪れるとか、平穏が保たれるというようなことに関しても、刷り込まれた概念です。本来は無も、平穏も、一定もありません。というよりも、それらを知れない。
一つ考えてみるべきは、それをなぜ求めているのかということです。それは今が十分ではないからですよね。そのように刷り込まれているということもあるかもしれませんが、いずれも不足感、不安感の影の中にあります。
「個人」は満たされることがありません。
世の中にはサマディを救いのメッセージと勘違いする人がいます。人生をより良くするための道具にしようとする人もいます。そのように(まるでスピリチュアルの延長にあることのように)伝えている人がいるからです。
でもこれはHow toのお話ではありません。
サマディは何にも使えません。誰も救いません。
「私は悟りを得た」という人は本当にいるし、「ヨガでサマディを達成した」という人も本当にいます。ですが、実際のところそれは「私はアップルパイを手に入れた」ということと一ミリも変わりません。そしてそのような人の中には、悟るための方法、そのような"特別"なメソッドを公開しながら生計を立てている人もいます。
悟るための方法なんてありません。そもそも悟りなんてありません。
自己の不在について話しています。"誰が"悟るのですか?"誰が"救われるのですか?
「自分」というものは幻想です。
実際のところ、誰もヨガしていません。
「私」がヨガするのではなく、ヨガがただある。もっというと、ヨガともいえないただのそれ、生命の動きです。
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そこにそれ以上もそれ以下もなく、それ以外がありえない。
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この完璧さ、みなさんの完璧さ、何といえばいいかな。
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サマディは自我の消滅といわれることもあります。でも、ここで伝えているのは状態の変化ではありません。消滅も何も最初からないんです。消滅するべき何かなんてあったことがないんです。
プラクティスの先にサマディがあるのではなく、ヨガはちょっとした気づきです。
仏教でもこれを伝えていますね。お経の中にこのことが書いてあります。般若心経です。
ですが、もう皆さんお分かりの通りこれは仏教とも般若心経とも関係しません。
誰も生まれていないし、誰も死なない。
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「個人」にとってこれは強烈なメッセージかもしれません。そして私は「狂った人」と思われるかもしれません(笑)
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